百年前新聞

2018-04-25

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訃報 1915年7月3日 宮崎菊子さん

大正4年7月5日

連載タイトル

1915年7月3日「モデルのお婆さん」こと宮崎菊子さんが亡くなりました。享年72歳。

今ではネットで検索しても出てきませんが、当時は有名な方だったようです。
彼女の死に際して、朝日新聞で「モデル物語」という記事が6回に渡って掲載されています。

宮崎菊子さんは、幕末維新の頃は芸者をされていて、その後結婚をしたものの亭主に死に別れ、1885~90年頃、上野公園で屋台の駄菓子屋を始めました。

上野公園には東京美術学校があり、朝日新聞によると岡倉天心が、読売新聞によると黒田清輝が、日本にモデルが居なくて困っていて、お菊さんを口説いてモデルになってもらったそうです。
どちらにしても日本美術界の超大物ですが、黒田清輝は1884年から1893年までフランスに留学されているので、岡倉天心説が正しそうですね。

当時は「油絵具は人間の生血を絞ってこしらえたものだ」などという話もあったそうで、周囲の人が止めるにもかかわらず、自分でモデルを務めるだけでなく、他のモデルを探して周旋も始めたとのこと。

この時のお菊さんのエピソードがなかなか面白いです。

銭湯に行って「顔も体格も申し分ない」女を探し出し、後をつけて家を確かめる。
飲食店であればお客になって、そうでなければ内職の周旋等で接近し、親に納得させたとのこと。時には、本人のみ内緒で連れ出すこともあったとのことです。

モデルになるに当たって、最初は「裸にさえならないのなら」と、ほとんどの人は言ったそうです。お菊さんは笑いに紛らかして訳なく請け合って、学校に送り込みます。

最初は日本画のモデルとなって、水干(平安装束)、鎧をつけた若武者等のモデルをさせます。半月経ち、一ヶ月経ってだいぶ慣れたところで、「お前さん、一つ裸になって見る気はないかね?」と、殺し文句を言ったそうです。
とは言っても、最初の頃は、いざモデル台に立つと逃げ出してしまうということも多かったようです。

30年近く経ち、そうこうしているうちに、モデル協和会というものを立ち上げ、120人以上のモデルを束ねることになったとのこと。モデルの地位も上がって、進んでモデルになろうという人も増えてきたとのことです。

当時、美術学校がモデルに支払っていた給料は、4時間半の約束で、男着衣35銭、男裸体50銭、女着衣25銭、裸体45銭だったそうです。男の方が高いのが、現代の感覚からするとやや意外ですね。
これが画家や彫刻家の自宅に行く場合は、男着衣55銭、裸体80銭、女着衣35銭、裸体55銭となったそうです。
相場感が違うので1円の価値がなかなか難しいのですが、仮に当時の1円が現在の2000~3000円ぐらいの計算で考えると、やや安い気がします。

時代が進んできて、絵画以外に雑誌のモデルの依頼も増えてきているとのことです。
一回の紹介あたり、いくらかの紹介料が、お菊婆さんの手元に入るようになっていたとのことで、今の芸能事務所の草分けという面もありそうです。


索引語:文化 訃報

Posted by 主筆 at 2015/07/05/18:38

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