百年前新聞

2018-01-22

百年前新聞とは?

井上馨の追悼記事

大正4年9月2日

晩年の井上馨候


井上馨候の薨去に際し、各種新聞の記事をまとめました。(文体は変更しています)

新聞評

井上候の薨去によって、明治史上の人物はさらにその一人を減じた。

候の生涯は、維新から明治に至る、我が国の過渡時代の権化のように見える。いくたびか死生の間に出入した青年時代の奮闘は、維新史の葛藤時代を表現している。その後の政界、実業界での活動は、それ自体がその時代の表現のようである。

候の明治史における事業は、伊藤(博文)公のように時代を開拓するものではなく、時代を体現するものであった。候の政治的生涯と実業界における事業とを結合すれば、実に明治史そのものである。

維新後の我が国の急激な進歩を偉大だとすれば、その時代の努力に重要な立場で参加した候の生涯を偉大であるとすべく、明治時代の文明に欠陥があるとすれば、その欠陥についても候には重大な責任があるはずである。

一人の人物にして、このように強烈に時代の色彩を発揮したことは、その人物の平凡でないことを証明している。候は80年の生涯を、一貫して時代を体現し、その体現が次の時代を支配するまで自己を発揮し得て、天寿を全うして終わる。候もまた大往生ではないか。

筆者は、力強い時代の体現者を失って、彼が体現した時代そのものを失ったように感じる。筆者には、この意味において、形式や辞令以外の深い感慨がある。重ねて弔意を表す。

渋沢栄一男爵談

明治3年(1870)に、伊藤公が銀行制度その他の調査の目的で渡米すると、井上候はその後任となり、大蔵少輔となった。当時予は大蔵省租税司の役にあって、これが予が候を知った最初の機会である。

翌明治4年に、伊藤公の報告に基づいて廃藩置県の議が定まると、予は制度改正掛となり各種の調査立案を行い、候がそれを実行する役割となった。これが候と関係が深くなった機会である。

同年夏に大蔵大輔だった大隈伯が参議となり、井上候が大蔵大輔となり、予が少輔となった。大蔵当局としては、予算編成に関して各省の要求をすべて満足させることは不可能であり、その立場にあった候と予は経費の節約に重きをおき、各省の要求を峻烈に拒絶したため、各方面から著しい怨恨を買ったのである。

時の参議西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、果ては大隈伯までから排斥され、ついに明治6年に候の癇癪玉は破裂し、予と一緒に太政大臣三条実美公に辞表を提出した。

予は平素から準備していた政府攻撃の会計制度に関する論文を提示し、これを政府に建白する旨を候に告げると、候はこれでは物足りないと言って詳細な数字を追加し、新聞に掲載させたのである。これによって政府が大いに驚き、且つ怒り、我々両名は会計秘密漏えいの罪に問われ、罰金を科せられた。

予は野に下ると、当時未熟だった実業界の発展に尽くそうと思い、第一銀行の経営に着手した。国立銀行の設立は、当初伊藤公がアメリカよりもたらした注意で、伊藤公と井上候と予で討議して決定したことだったが、金銀の比価に関して三人とも詳しく考えていなく、比価の変動に伴って、第一銀行の経営が困難になった。

予はこれも天命とあきらめて、第一銀行を放棄しようと決心したが、ある日井上候が現れて、第一銀行の善後策に関して忠告し、ついに同銀行を維持することができたのである。

要するに候は大局を達観すると同時に、小事をも決して見逃さず、最も熱誠にして、最も親切な人である。

伊藤公はいわゆる囲碁の定石を尊び、石が上品であることに重きをおいて、攻め合いには弱いが、井上候は定石にこだわらず、石が下品であるとの誹りにも耳を貸さず、攻め合いには常に強い人だと言うことができる。

大隈重信伯爵談

井上候と予の交際は明治維新前、予が長崎にいた頃からのことで、実に50余年の昔である。長州藩士中、予が最も深い交わりをしたのも故伊藤公と井上候の二人で、明治初年に予が木挽町に住んでいた頃は、井上候も日夜出入りして互いに議論を戦わせた。

明治5年(1872)に薩長の諸豪が予をほとんど謀反人と罵り、連合して予を圧迫した。当初、伊藤、井上の両氏は予の同情者だったが、ついには彼らも反対者となり、これから4年間は互いに反目して言い争っていたのである。

故黒田清隆伯が調停し、再び旧交を温めることとなったが、それ以来もしばしば敵味方として争った。そのようなことはあるが、明治維新前からの旧友でもあり、互いに友情が通じ合っていることは、とうてい普通の友とは違っている。

井上候の人となりは、皆も知っているように正直であり、熱烈で感情的な人物であり、時には愛憎の念に駆られることもあって、その経歴上には失敗も多く、敵も多かった。だがその困難と逆境に対処するところは実に勇者であり、この点において伊藤その他の諸豪といえども、遠く及ばないところがある。実に彼独特の長所である。

原敬氏談

井上候の薨去は、実に国家の為に惜しむべきである。

候と吾輩との交際は、35~6年間継続しているので、候に関する大抵の事は知っている。もちろん候の長所も短所も知っている。しかし候の生涯は公知の事実であって、いまさら吾輩が蛇足を加えるまでもないことであるし、また候の長短を指摘して先輩を批評することは吾輩として出来ないことである。

こう前提を置くと語ることがなくなるが、吾輩が候と初めて会った時のことから話をすると、それは明治14年(1881)であった。吾輩がまだ新聞記者をしていたころで、ある人の紹介で東京で会見したのであるが、その時はあまり立ち入った話もなかった。

その後明治15年朝鮮事件(*壬午事変)が起こって、候が外務卿として長崎にあったとき、吾輩は大東新報の主幹としてしばしば候に会った。それ以来、候と親密な交際を続けてきたのである。

候は真に親切な人で、好んで人の世話をする人である。吾輩は別に家政上の世話まで受けなかったが、そういう世話まで受けた人が随分あったようである。

田健治郎男爵談

井上候が明治31年(1898)に大蔵大臣だったとき、鉄道建設費の繰り延べを行なったことは有名だが、当時の候の熱心奔走は驚くべきものだった。

弁当持参で馬車を駆って各省を訪問し、繰り延べに同意を求め、逓信次官であった予もまた問題の関係上、最も強く候の説破にあった。予は数字上の問題よりも、候の報国の熱意に負けて、繰り延べに賛成せざるを得なくなった。

候の財政に関する意見は、永遠の確立というよりも、対症療法的にいかなる難題も退治した感がある。

候は問題に対し是と信じると、万難を排して馬車馬的に猪突して成就を図った。また非と信ずると、一刻も猶予なくこれを廃すことにやぶさかでなかった。この気質が、財界に個人的に偉大な勢力を持つことになった理由である。

時局多難の際、候の薨去は実に寂寞の感に堪えない。

逸話

老候の出身は武士であるが、農民相手の説教なぞでも相手を感心させる節が少なくない。例えば鴻池新田あたりへ出かけた時でも、農民を集めて、やれ耕しようが浅い、肥料の施し方が間違っていると、傾聴に値することをまくしたてる。
「田の肥料は地主の足型が一番だ」と、暗に懶惰な地主連中を戒めた文句は、あのあたりの農民に残っている。

東本願寺が巨万の借財を持て余して二進も三進も行かなくなったとき、老侯が顧問に頼まれ本願寺に来てみると、二の膳、三の膳付きの御馳走をあてがわれ「ワシは本願寺へ御馳走を食いには来ない。こんな贅沢三昧で借金の整理が出来ると思うか!」と言って席を蹴って帰ったのは有名な話である。

骨董の趣味を解した人で、月給200円ぐらいのときに、3,000円を投じて逸品を買い込んだことがあった。今ではこれらのものが積もり積もって、蔵に2~3杯はある。

また候は自ら包丁を持って料理するが、板前の冴えは玄人裸足で、珍客があれば自ら指揮していた。

我が国の演劇を改良すると言って、陛下の行幸を自宅に乞い、団十郎、菊五郎の妙技を天覧に供したのも候の力である。


索引語:政治 産業 演劇 文化 大隈重信 原敬

Posted by 主筆 at 2015/09/02/11:53

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