百年前新聞

2018-04-25

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訃報: 成田 安輝

大正4年7月8日

成田安輝(変装姿)

大正4年(1915)7月7日、成田安輝さんが奉天(現在の瀋陽)で死去しました。享年51歳。

この方も調べてみると、明治大正時代を象徴する、大変興味深い人生を送られています。

(年表に関しては、「成田安輝西蔵探検行経緯(上) : 外交資料に見る東チベット経由入蔵挫折記 木村肥佐生」という論文を参考にさせていただきました。この木村肥佐生さんという方もすごい生涯を送られています。)

成田安輝は、文久4年(1864)1月2日に、薩摩藩医の長男として生まれました。

明治10年(1877)、13歳の時に陸軍幼年学校に進みます。陸軍幼年学校の第一期生だったとのことです。その後陸軍士官学校に進みますが、病気のため在学2年で退校しました。
病気にならなければ、軍人としての生涯を送った可能性が高いです。

その後、明治19年(1886)22歳のときに、田中鶴吉という人について、小笠原諸島へ天日製塩法研究に行きます。
なぜ製塩業なのかは分かりませんが、当時日本で行われていなかった効率の良い製法で、一旗揚げようと思ったのではないでしょうか。

翌年の明治20年に、天日製塩法が盛んなアメリカ西海岸に行き、日本の湿潤な気候では天日製塩法が難しいことが分かりました。
そこでもめげずに、翌年にはコンブ調査のためアラスカに行きます。アラスカで、トレイドウェル・ゴールド・マイニング会社の機械部に勤務したとのことです。
当時はアラスカでゴールドラッシュが始まる直前で、これもゴールドラッシュに惹かれた行動ではないかと思います。

明治23年(1890)に一時帰国するも、翌年に再渡米。明治25年(1892)28歳のときに、サンフランシスコで帝国植物商会という会社を設立、日本の植物をアメリカで販売しようとしたとのこと。

明治27年(1894)、アイダホ州の日本人鉄道労働者の間で問題が発生し、珍田捨己領事の依頼で、鉄道会社で日本人労働者の監督をすることになりました。
この頃、アイダホ州の鉄道建設のため、多くの日本人がアイダホに行っていました。当時の様子が分かるサイトがありましたので、ご参考まで。(「ディスカバーニッケイ アイダホ州の日系人」
この時に外務省とのつながりが出来たんですかね。

明治29年(1896)32歳で帰国、翌年に台湾総督府民生局殖産部に技師として派遣されます。その際に、中央山岳部や東部沿岸地帯を探検しています。
下関条約での台湾領有決定が1895年なので、初期の台湾の調査に関係したということですね。
この間に、チベット入りの秘密工作の任務を与えられたと思われます。

明治31年(1898)に、チベット行のために四川省重慶に移り、日本語を教えつつ、語学を習いつつ、チベット行の準備を始めます。
明治34年(1901)に、四川省側からチベット入りしようとしますが、当時のチベットは厳重な鎖国状態で、清国側からのチベット入りを断念。
写真の時期は分かりませんが、この頃のものでしょうか?中国人に変装して、辮髪をしています。

その後、上海からカルカッタに向かい、ダージリンからチベットのラサへ入国することが出来ました。
本人は、自分がチベット入りが日本人初だと思っていたらしいのですが、実際は河口慧海という僧侶がその9か月前に仏典収集のためにラサに入っていたのでした。

明治37年(1904)40歳のときに、日露戦争が勃発。北京公使内田康哉、駐在武官青木宣純の下で特別任務につきます。単身ゴビ砂漠を越え、後方攪乱の任務に従事したとのことです。
青木宣純も陸軍幼年学校出身ということで、面識があったのかもしれませんね。
内田康哉は、成田安輝がチベット入りしようとしていた時の外務次官で、成田に指示をしていました。

日露戦争が終わり、朝鮮で金山の採掘、安東で石油販売代理店などの仕事をして、大正3年(1914)奉天に移住、翌年に亡くなりました。
動力源としての石油が注目されはじめた時期で、ここでも一山当てようとしたんじゃないかと思います。

カリフォルニアへの日本移民、台湾領有、チベット訪問、日露戦争、大陸浪人と、いろんな側面を持った人物です。

*論文を見させていただいたので、木村肥佐生さんの書籍をリンクします。


索引語:訃報 台湾 中国

Posted by 主筆 at 2015/07/08/15:37

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