百年前新聞

2018-04-25

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姑息な品行方正/桃太郎主義の教育 第32回

大正4年10月14日

74. 品行と人格

いったい日本人は、また小量で満足する癖がある。早く諦めてしまう病がある。
これは例の封建の余弊で、身の程を知れ、分を守れ、及ばぬことに手を出すな、という控えめ主義の教育が、深く骨がらみとなったためだ。彼の舌切り雀における、軽いつづらの教訓が、まさにこうした姑息な思想を子供の頭脳に染み込ませた。そして人間の向上心を、あまり上から押さえつけ、下から引き戻そうとしたためである。

これ故に、麦飯をあてがえば麦飯で満足し、この上に米の飯を食おうともせず、布子があれば布子で得心して、この上に絹布をまとおうと思わない。
質素とか節倹とかは、元より悪いことではあるまい。しかし進んで米を食おうために、その米を作ることにつとめ、さらに絹布をまとおうがために、これを買えるだけの金は儲けるという、発展力や進歩心がなくては、まことに心細い話ではないか。

所詮こういう小満足と、早諦めの姑息病は、儒教と仏教のもたらしたものだ。
さればこそ我が国のおとぎ話の如きも、古代の純なるものに至っては、すこぶる放胆に雄大に、しかも人性の天真を流露して、情味の津々たるものがあったが、この二教が渡来して、さらに武士道なぞの興ってからは、小心な、姑息な、はた偽善的な教訓談にのみ傾いてしまった。

前者の例としては、竹取物語、御曹司島めぐり、文正草紙、梵天国なぞがそれである。
また後者の例としては、花咲か爺、舌切り雀、猿蟹合戦、かちかち山等を挙げよう。
しかも後に挙げたものは、ほとんど全国至るところに知れている。前に挙げたものに至っては、はたしてどれほどの家庭に、よくこれを用いられていよう?

否、そのあるものの中には、男女の間のことが無遠慮に扱われているために、例の小心な道学先生から不健全なおとぎ話として、あるいは排斥されているかもしれない。

こうした道学先生は、人間をまず去勢して、神か仏になぞらえて、一種の木偶に作りあげようとするのだ。品行方正ということが、真に彼らの理想であるのだ。

品行方正!なるほど立派なことである。
しかし品行と人格とは、全く別であるということを、彼らははたして知っていようか?

殊に品行方正の語は、決して悪事をせぬという意である。進んで善事を為すというまでの、積極の意を含んでいない。
すればその独りは清かろう、そして社会に毒も流すまい。しかしそれだけ薬になるかどうかは、すこぶる疑わしい話である。

品行方正ということは、言わば塩のようなものだ。自分が腐敗しないと同時に、物の腐敗も防ぎ得よう。しかしその塩ばかりでは、とうてい飯は食えない如く、品行方正というばかりでは、なんらの仕事も出来ないのである。

例えばここに、律儀一途の役人があるとする。その人はすこぶる清廉で、実直で、事務に勉強で、十年一日の如く出精している。酒も飲まねば煙草も吸わず、実に立派な人間だ。
しかしただそれだけのことで、別に国家に大功もたてねば、社会に公益もはからないとすれば、国家や社会から見ては、ただ路傍の小石に過ぎない。たまたまその石がきれいであっても、これで橋もかけられなければ、また家も建てられないじゃないか。

それよりも、少しは形が歪んで、苔や土がついていても、これに多少の手を入れれば立派な架橋材とも、また建築用ともなり得る石を、まず重宝がるべきである。
いわんや架橋の要あり、建築の急を認めている、今の日本の如き社会には、そうした石材が大切であるのだ。

75. 不見転(みずてん)主義の忠君愛国

人間として品行方正を要求する日本は、国民として又忠君愛国を要求する。これも元より当然のことだ。いやしくも日本臣民たるもの、君に忠ならず、国を愛せぬ者が一人もあろうか。

ところがその忠君といい愛国ということに、おのずから形式の異なるものがある。すなわち時代につれ、場合によって、その作用の変わってくるのは、また止むを得ぬことではあるまいか。
無論、根本の精神は、古今一貫しているのであるが。

然るに例の近視ないし後視者流は、現代の臣民に求めるのに、過去の忠君ぶり、愛国ぶりをもってしようとする。それでたまたまその注文に背くところがあれば、たちまち不忠視し、売国視するのは、不都合千万な話である。

かつて我が日本には、社会主義者の輩が、極刑に処せられたことがあった。これは我が国三千年の歴史に、少なからぬ泥を塗った事実として、僕も遺憾至極に思う。

しかし退いて考えてみるに、これらの不心得者を出したのは、また何らか一方に他の意味における不心得者があって、これが自己の不明を顧みず、味噌と糞とを同一視し、遂にその味噌をして、自ら糞ヤケに成らしめたのではあるまいか。

君に忠なるべく、国は愛すべきものであるのは、元より言うまでもないのであるが、その忠ならんとするには、まず君を知らねばならず、国を愛するには、また国を知らねばならぬ。
然るにこれを知らしめずして、ただこれに忠なれこれを愛せよとのみ、盲的行為を強いようとする。これ本尊を開帳せずして、直ちに賽銭を投ぜしめ、代物を見せずして、直ぐに代金を取ろうというようなものだ。

何事も服従的に訓練された、封建時代ならともかくも、すでに四民の階級も取り払われ、信教の自由まで許された今日、そうした不見転主義の忠君愛国をもって、国民を律しようなぞとは、まるでスイスの義民どもに兜を掲げて拝をさせようとしたのと、ほとんど同轍の横車である。

いわんや維新の革命が、封建制度を打破した結果は、大切な家族制度にまでどうやらヒビを入れてしまって、個人主義の新思想がそこここに根を占めてくる。

一方にはまた世界の交通が、ますます各自の進退を便ならしめ、さらに科学の進歩は、ここばかりには日は照らぬことを、ますます証拠だてようとする。

さらに比喩をもって言えば、今まで米飯でなければ命が繋げぬと思っていた者も、パンで生きていられることを知り、下駄ばかりが履物と心得ていた者も、靴というものあることに知るに至った。

そしてパンより米飯がうまく、靴より下駄が履きよいというのは、畢竟習慣からくることに過ぎない。もし初めから何も知らずに、ただちにこの二者を出されたとして、もしパンが口に適い、靴が足に合った場合、なおかつ米飯、下駄をあてがわれたら、その者ははたして満足していようか。

たまたまおとなしい人間なら、辛抱してそれを用いもしよう。しかし横着な者ならば、遠慮なくこれを取り換えてしまう。それをまた干渉して、無理に気に添わぬ物を持たされるに至って、はじめてそこに衝突が起こって、忌まわしい結果を来たすのだ。

それよりはこの場合、ぜひパンより米飯を食わせ、靴より下駄を履かせようというなら、その米飯をうまくして、いかにパンより優れるかを知らしめ、下駄を改良してなるほど靴より重宝であると、心から納得させるが一番だ。
そしてこれを納得するに至って、はじめてその人は米飯を愛し、また下駄を愛すようになる。

付け焼刃は剥げやすく、無理に持たせた荷物は、途中で振り落とされがちだとすれば、少なくとも今日以後の忠君愛国は、盲従的の不見転主義ではイザ鎌倉という場合、錆び薙刀や痩せ馬ほども、物の用には立たぬのである。

出典

近代デジタルライブラリー
桃太郎主義の教育 巌谷小波著 
大正4年2月25日発行 東亜堂書房

WEB掲載用に、旧漢字を新漢字に変更、段落分けの調整等の改変を行っています。
現代では不適切な表現もありますが、当時の文章を出来るだけ活かすために、そのまま掲載しています。ご了承をお願いいたします。


索引語:桃太郎主義の教育 連載

Posted by 主筆 at 2015/10/14/09:16

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