百年前新聞

2018-01-22

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親としての心得/桃太郎主義の教育 第27回

大正4年10月3日

64. になる、と、である

いったい子供とはどういうものか?
これは生き物の存在する上に、最も欠くべからざるものである。もし世界から子供なる分子を取り去ったら、たちまち世界は暗闇になってしまう。すなわち大きな丸い地球玉が、無意味に転がっているに過ぎないことになる。
ただしこの場合子供とは、ただに人間のそればかりを言うのではない。獣類でも、鳥類でも、虫類でも、将た喬木でも、雑草でも、果樹でも、野菜でも、いやしくも生ある物の後継者は、皆この子供に属するので、かの竹の子、芋の子に至るまで、決してお多分に洩れるものではない。

しかし同じ子供でも、人間の子と動物の子とは、大いに趣を異にしているのは、元より言うまでもないことだ。

かつてドイツのある詩人は、こういうことを言っている。
「親になるのは甚だ易いが、親であるのはすこぶる難い」と。
になる、と、である、仮名わずか一字の差だ。意味に於いては非常な懸隔がある。すなわち親になるとは、ただ子をこしらえるだけのことだ。が、親であるのは、すなわちその子を育てるということだ。
そこでその親になるのは、決して人間に限らない。しかしよく親であり得るのは、人間以外に何か出来よう?

もっとも哺乳動物は、いずれもその子を育てはする。しかしそれは本能的の動作で、養育するとは言えようが、教育するとはとても言えない。しかもこの教育の出来るのが、人間が他の生類と異なるところ、すなわち万物の霊たるところだ。

さらにこれを言い換えれば、人間は子供を生むばかりでなく、またこれを育てるばかりでなく、さらにこれを教えるという、特殊の権能を与えられている。
そしてその権能は、やがて義務ともなるのである。人が子供を生んだ以上は、すなわち親になった以上は、さらに親であらねばならぬという、自覚がまた、大切である。

しかし今日の人の親が、果たして私は親でござると、人前で立派に高言し得るほどに、立派に子を教育していようか? そこが甚だ問題だ。

なるほどその当人は、決して子供を粗末にしてはいまい。すでに我が子である以上、これを馬鹿にしよう、悪党になれとは、誰一人考えよう。
あるいは教育学の原則により、あるいは自家の経験に則って、善いが上にも善い子に、偉いが上に偉い人間に仕上げようとは、必ず望んでいるに相違ない。

その目的やすこぶる良しだ。が、その方法が果して当を得ていようか?

65. 親の心得違い

「神が人間を造ったのは、皆自己の分身に型どったのだ。それを人間の分際として、人間が人間を造りあげようとは、身の程知らぬたわけた業だ」とは、エレン・ケイ女史の言葉である。
これは極端な言い分ではあるが、一派の教育家を罵倒し得て、実に痛快な語ではないか。

もとより人間には、子供を教育する義務あると同時に、またその権能をも与えられている。すれば親であらんが為に、いろいろに心を用ふるのは当然のことだ。
が、悲しいかな人間には、神ほどの明らかな視力が無い。といって、全く盲人でもない。ただ物事を見は見ても、よくそれを見抜くことが出来ないのだ。

そのくせ一方には、相応にまた自惚れがある。そこでそのそそっかしい自惚れが、鈍い視力に裏書をして、わが子はこうあるべきものという、目安をまず作ってしまう。そしてその目安にはめるためには、その子供の性情は人格は、ほとんどこれを顧みるいとまがない。

このために、彼らの多くは、杉の木に美しい花を求め、菊の花に甘い実を求め、ないし椿の板で天井を張ろうとして、その要求の達せぬために失望し、あるいは焦れる。
これを神の目から見たら、さぞおかしなことであろう。

これというのも、畢竟彼らが親であるのと、ただ子を愛する点においてのみ、わずかにその資格を備えるので、我が子を知るという明が、大いに欠けているからである。

子を見ること親に如かず、とは真に親たる資格ある者のことだ。多数の平平凡凡の親は、おおかた我が子を見損なっている。否、甚だしきにいたっては、よくこれを見ようともしないで、ただ自分の頭に描いたままを、直ちに我が子である如く観じる。

例えばここに軍人の親があるとする。この人は自分が軍人であるために、我が子も軍人であるべく要求する。否、ただに要求するばかりか、まさに成り得る者と期待する。
ところが人間の子は人間にこそなれ、軍人の子が軍人になれるとは言えない。かの厳格な軍医のせがれに、シラーのごとき大詩人が出たのでも知れよう。

然るに親はこの点を斟酌せず、是が非でも自分の理想通りに、その子を育てようとする。それでたまたま望み通りに、その子が軍人に成り得たところで、本来が柄にないのだから、とうてい父以上には出られない。もし父が大佐なら、その子はようやく大尉止まり、父がよしんば元帥まで行っても、その子は少将になるかならずかで、予備に編入されるぐらいのものだ。親たる人はこれで満足が出来ようか?

もしまたその子が、仮に文芸の天才があったとする。そしてその天才を、遺憾なく発揮せしめたなら、それこそ国の誇りともなるべき、大文学者に成り得たものを、強いて軍人に仕込んで、たかが佐官で終わりを遂げさせてしまうのは、ただにその人一人、この家一家の損失ではなく、実に国家経済の上にも、大なる不利なことである。

けだしこういう親は、せっかく与えられた金剛石を南京玉にして灯篭にぶら下げるか、あるいは伽羅の名木をステッキにして突きまわるようなものだ。
親であるのはなるほど親であろう。ただし心得違いの親である。

出典

近代デジタルライブラリー
桃太郎主義の教育 巌谷小波著 
大正4年2月25日発行 東亜堂書房

WEB掲載用に、旧漢字を新漢字に変更、段落分けの調整等の改変を行っています。
現代では不適切な表現もありますが、当時の文章を出来るだけ活かすために、そのまま掲載しています。ご了承をお願いいたします。


索引語:桃太郎主義の教育 連載

Posted by 主筆 at 2015/10/02/22:50

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