百年前新聞

2018-01-22

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不揃いな足並み、変化に対応せよ/桃太郎主義の教育 第29回

大正4年10月7日

68. 靴と下駄

さらに遠慮なく言ってみると、日本人ぐらい後退の好きな国民はない。
せっかく前へ進んでいくかと思うと、じきまた後へ退ってしまう。ちょうど砂山を登っていくような具合だ。

それというのが、全く足並みが揃わないからだ。
足並みというと、他人と合わす歩調のようだが、他人どころではない。自分の足の右左が、まるで揃いかねている。というとまた跛(ちんば)のようだが、本来は跛でもないものを、靴と下駄を片足ずつ履くから、それで跛になってしまうのだ。

なぜまたそんなことを言うのか? 分からなければ言って聞かそう。

その一例を挙げてみれば、例の国字の改良でもそうだ。
一方ではローマ字採用という、非常に進んだ説があって、それが議会まで通過したと思うと、一方ではまた漢籍奨励なぞの議論が、当路者の一角で唱えられる。
これはまだどっちとも軍配の上がらない話だからよいが、そのローマ字採用の順序として、漢字節減と仮名遣い改正とは、すでに当局者も必要を認めて、現にこれに着手までしたのだ。

然るにたまたま頑固論者が、貴族院とか枢密院とかで、そのちょんまげを振りたてると、たちまちその見幕に恐れて、せっかくほとんど完成しかけた教科書の改訂まで中止して、かえってさらに一足飛びに、死文法の復活とまで後退りをしてしまったざまの悪さ!
これなぞは明らかに、靴と下駄とを片方ずつ履いて、たちまち石につまづいた類だ。

元よりそうした足取りでは、石につまづくのは当然のことだ。
だがつまづく石があるなら、なぜその石を取り除けない? 歩きにくいと思ったら、なぜ靴をそろえて履かない?
それを一度転んだが最後、急にまた怖気づいてしまって、かえって最も不便な下駄を履き、物にすがりながらヨタヨタ歩くとは、何たる馬鹿々々しいことであろう。

69. 水道と井戸

また漢字節減でもそうだ。
元より節減する目的が、そうした無用な物を覚えるのに、余計な頭脳を費やすのが、いかにも馬鹿々々しいからではないか。

然るにその後、学生が漢字の使用をわきまえないと言って、急にまたうろたえはじめ、せっかく節減した漢字を、また増加して用いさせようとは、何たる矛盾、撞着であろう?

学生が漢字に疎くなったのは、取りも直さず漢字節減の目的が、理想通り達したものだ。すなわちそれだけ他の方面に、その頭脳を費やし得た点を、大いに買ってやるべきでないか。

それをいまさらのように咎めたてするのは、家へ水道を引いてから、下女が釣瓶の扱い方を知らぬと言って、急にまた井戸を掘るようなものだ。
そういう主人があったら、誰がその愚を笑わずにいよう。

いや、井戸では僕も感じたことがある。
ある時、僕は家族を連れて、目黒の牡丹を見に行った。その時、内田屋の奥座敷に居ると、そこへまた一家族らしい客が来た。その中の男の子が、途中で手が汚れたというので、庭の井戸で手を洗おうとすると、母は別に乳児を抱えていたので、その姉らしい娘に、水を汲んでおやりと命じた。
姉娘というのは十三四、それと心得て井戸側へ来たが、見るとそこの釣瓶を、逆に下から引き上げようとするので、重くてなかなかあがらない。僕は見ていておかしくもあり、また気の毒にも思われたが、さて考えてみると、全く無理もないことだ。
思うにこの娘は、東京の真ん中で育ったので、その物心のついた頃には、もう立派に水道が出来ていた。それで水というものは、ねじさえねじれば出てくるものとばかり心得、釣瓶で汲むなぞということは、まるで知らなかったに相違ない。
で、車井戸の使い方を知らず、釣瓶の重さを持て余していると、母がさも歯がゆそうに、「何だねえ、お前大きな体をして、井戸が一つ汲めないのかえ。そんなことをして釣瓶を持ち上げる人があるかい、これはこうして汲むもんですよ」と遂に自分で汲んでみせたが、娘は別に感心した顔もせず、「だって私、家にやぁ井戸なんぞ無いんですもの」と、かえって不平そうにつぶやいていた。

これは何でもないことのようだが、子細に観察してみると、大いに現代を説明している。

なるほどまだ日本中に、水道の設備は行き渡っていない。まだ車井戸や、はね釣瓶は、全国に数えきれないだろう。
しかしすでに水道を使っている地方では、もう釣瓶の扱い方などは、別にわきまえておく必要のないのは、ちょうど電灯を引いている家に、ランプ掃除の要らぬようなものだ。

もっとも水道には断水もあり、電灯には停電ということがあるから、井戸もランプもまんざら不要ではないと、言えば言われるかしれないが、僕に言わせればそうではない。
そんな井戸汲みやランプ掃除の稽古に、余計な手間を費やすよりは、むしろその労力を転じて、水道の断水せぬよう、電灯の停電せぬようにと、その方に工夫を凝らす方が良いのだ。

これ眼を未来につけ、力を積極に用いるゆえんだ。
ところが日本の当局者は、前を見るべき眼をもって、またしても後ろを振り返り、前に進むべき足をもって、ややもすれば後へさがろうとする。そして彼らの言いぐさを聞けば、何分今日の社会の有様が、まだ漢字を用いている以上、これを教えない訳にはいかぬ、ともっぱら今日本位から割り出す。

しかしよく考えてみるがいい。今日の後には明日が来る、昨日は再び帰らないが、明日は限りなくたたみかけ来る。決して今日は今日をもって、いつまでも立ち止まっているものではないのだ。

それに彼らの迂闊さは、よく昨日に顧み、わずかに今日までは見得るけれども、もはや明日は見越されない。で、社会の潮流が常に東するにもかかわらず、自分は西を向いている。まるでかのエスカレーターに乗って、逆に下へ降りようとするものだ。
電車から飛び降りするのでも、その進行の方向に逆らえば、すぐに大道へ投げ出される。彼らの足元の覚束なさ、傍の見る目も笑止ではないか。

出典

近代デジタルライブラリー
桃太郎主義の教育 巌谷小波著 
大正4年2月25日発行 東亜堂書房

WEB掲載用に、旧漢字を新漢字に変更、段落分けの調整等の改変を行っています。
現代では不適切な表現もありますが、当時の文章を出来るだけ活かすために、そのまま掲載しています。ご了承をお願いいたします。


索引語:連載 桃太郎主義の教育

Posted by 主筆 at 2015/10/07/13:48

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