百年前新聞

2018-04-25

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細かいことにこだわらず大局を観よ/桃太郎主義の教育 第31回

大正4年10月12日

72. 自縄自縛

ところが日本の教育は、ややもすると盆栽の松を珍重して、山林の杉を等閑にする観がある。
手っ取り早く言ってみると、小才子は作り得るが、大人物はこしらえられない。それというのが、理論の末に流れて、精神の本を忘れるからだ。

いったい日本人は、重箱の隅をほじくることが巧い。そして妙に規則を作ったり、法律を編んだりすることが好きだ。そしてその規則や法律のために、かえって自由を犠牲にするのは、ちょうど自分で張った網に自分で引っかかっているようなものだ。

「こういう時にはこうするものだ」といって、甚だしい不便を忍びながら、古い習慣に自ら囚われたり、「こんなことは規則が許さない」といって、非常な窮屈をこらえてまでも、条文の面を立てようとする。
これは取りも直さず、せっかく生きている自分の体を、我から器械にするようなものだ。

僕はかつてこんなことを聞いた。英国の銀行でその日その日の決算をする時、一ドルでも勘定が合わないと幾度でも帳合をし直して、その勘定の合うまでやめないが、米国の銀行ではそうでない。一度帳合して合わなければ、その一ドルは欠損にして、そのまま帳簿を打ち切ってしまう。そしてこれが両国人の、性情の別を証明しているところだと。

なるほど勘定の合わないのは、はなはだ面白くないことだ。しかしこれを合わせたところで、現在の金に差がないのなら、別に何の利益にもなるまい。
むしろその帳合の手間で、さらにそれだけの利を得る方法を、他に講じた方がよいではないか。

僕はむしろこの場合、英国人の消極的堅実より、米国人の積極的活躍の方を、桃太郎主義に適うものとする。

実際、米国人は無造作である。ために物事がぞんざいにはなるが、その代わりすこぶる運びが速い。いわゆる繁文縟礼なぞは、彼の国人の最も嫌うところだ。

これから思うと日本人は、なぜああだろうと思うほど、下らぬ造作を後生大事に、手間暇を費やして豪も顧みない。

例えば東京の電車でもそうだ。あの乗り換え切符の煩雑さ、時これ金と言うべき時代に、よくもあんな面倒な真似が出来る。

けだし当局者の頭脳には、少しでも乗客に不正をされないように、すなわち乗車賃をごまかされないように、ないし少しでも度々払わせるためにという、浅ましい考えばかりあって、その便利をはかろうなぞという、頼もしい心は微塵もない。

だから見たまえ! 時間や場所に制限を加えて、まずもって乗客の自由を奪い、さらに甚だしきに至っては、誤った切り目を発見するに当たって、他の乗客の不便をも顧みず、暫時進行を停めてまでも、賃銭追徴に汲々としている。
あれでは電車の目的が、交通の便益をはかるのだか、それとも乗客の油断をつけこんで、少しでも収入を多くしようというのだか、とんと区別が分からないでないか。

僕がもし電気局長なら、決してあんな馬鹿なことはしない。すでに市内を均一にした以上は、乗り換えも一切自由にして、一枚の切符でどこへも行けるようにする。すれば乗客の運動がすこぶる敏活に出来るばかりか、車掌の事務も大いに簡易になって、一台に二三人も乗るの必要がなくなる。
その車掌を減じ得たのと、乗り換え切符を廃したのとから、湧いてくる若干の剰余金は、現在のようにして乗客の巾着から無理に搾り取る賃銭の額よりも、おそらく多くはあるまいか。もしそれが多くないにしても、それで乗客の便が増し、車掌の労が省けるならば、それだけでもすでに大なる利益だ。

これしきのことは、僕がこんなところで言わないでも、すでに当局者には気が付きそうなものだ。それでいて一向改良のことも聞かず、相変わらず不便利と不条理を墨守しているところが、そもそもまた日本式たるところと、僕はむしろ憫笑に耐えない。

73. 臨機応変

イヤ、議論が脱線して、とんだ電車論になってしまったが、これもいわゆる一事が万事、日本人のとかく物事に囚われる、姑息さ加減の一例として挙げたまでだ。

またその囚われるのは、只に規則や法律ばかりではない。知識をもって要素とすべき、いわゆる学者がまた囚われている。すなわち自分の知っているだけのことをもって、まず至れり尽くせりとして、その学説に絶対の権威を持たせ、いやしくもこれと相容れぬ議論は、頭から取るに足らぬとして排けようとする。

けだし宇宙の大秘密は、今日までの科学の力で、はたして究め得たであろうか?
これは例の盲人が、象を撫でたというたとえ話で、十分に説明しているでないか。

かの盲人が、象の鼻だけを撫でてみて、象がすなわち象であると信じた如く、学者の多くは自然の一部をようやく解し得ただけで、ただちにその全部を判じようとする。大胆もまた甚だしい。

こんなことは学理に合わぬ、科学が許さぬと、ただ旧来の学説のみに拘泥して、他の理外の理とも言うべき、不可解、否未可解のことを侮蔑してしまう。
こんな了見でいるから、段々時代に遅れてしまうのだ。古来、腐儒という語があるが、こう一説に停滞していては、なるほど学問も腐らずにはいられまい。

かつて日露戦役に、我が軍が遼陽を占領した時、露軍の退却するところを目がけて、さらに追撃を食わすべく、ある参謀官が主張した。ところが時の参謀長は、そんなことは兵学に無いといって頭を横に振ったので、その参謀官は憤慨してそのまま内地に帰ってしまったという。
果せるかな、このとき追撃を加えなかったために、その後沙河に奉天に、幾たびか手数を繰り返して、しかも遂に致命傷を与え得なかった。
これは畢竟参謀長の、ただ兵学のみ囚われた、杓子定規の不融通からきた失敗であるのは、すでに軍人間の定評と聞いた。

碁には定石というものがある。これを知らねば上手になれまい。しかし定石ばかりに囚われて、臨機の石を下し得なければ、勝ちは相手に取られてしまう。
和歌にはテニハというものが要る。これを心得ていなければ、無論和歌は作れまいが、またこれにばかり囚われていては、しょせん面白い和歌は詠めまい。

彼の太閤が藤吉郎時代に、上島主水と議論のあげく、遂に長槍で短槍を破ったのも、全く臨機の妙を得たからだ。
槍は突くものに相違ない。しかし突くのは畢竟手段で、真の目的は敵を斃すのにある。そしてその斃すためには、時にあるいはその長柄を利用して、敵の向う脛をかっぱらうなぞは、最も策を得たものではないか。

またこの頃聞き及ぶ、ドイツ軍の十六インチ砲の如きは、由来専門の学者の、とうてい不可能なものとされていたものだ。ところが彼のドイツは、その不可能とされたものを、工夫と研究の功を積んで、遂に実現させたではないか。

さらにまた当局者に聞くと、重砲を据え付ける土台工事は、ぺトン(*コンクリート)を固めあげるまでに、どうしても一か月を要するのだそうだ。先に旅順攻撃の際にも、また今度の青島の攻撃にも、まさに同じ手数を要したという。

然るにドイツでは、その工事に用いるぺトンが、わずかに三四時間で固まるように、すでに研究され、また応用されたというでないか。彼のリエージュの攻撃が、あの通り早く形のついたのも、また東プロシアにおける露軍撃退に成功したのも、まさにこれを証拠だてている。

してみると日本では、十年前の日露戦役と、少しも変らぬ仕事をしているに対して、ドイツではもういつの間にか、はるかに進んだ手際を見せていることになる。これそもそも何のためか?

これ畢竟我が国の者が、既成の科学に満足して、それ以上を研究しないに反して、彼はそれ以上それ以上にと、常に工夫を怠らないためではないか。
こんなことを思うと、僕は実に歯がゆくてならない。否、歯がゆいどころか、実際寒心に耐えないのである。

出典

近代デジタルライブラリー
桃太郎主義の教育 巌谷小波著 
大正4年2月25日発行 東亜堂書房

WEB掲載用に、旧漢字を新漢字に変更、段落分けの調整等の改変を行っています。
現代では不適切な表現もありますが、当時の文章を出来るだけ活かすために、そのまま掲載しています。ご了承をお願いいたします。


索引語:桃太郎主義の教育 連載

Posted by 主筆 at 2015/10/11/20:50

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