百年前新聞

2018-01-22

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素直さが必要/桃太郎主義の教育 第34回

大正4年10月21日

78. 道の捷径(ちかみち)

人間は万物の霊だという。ただしそれは人間が決めたのだ。

なるほど親でないと共に、親であり得る能力だけは、他の動物に優っていよう。しかしまた他の一面において、人間の他の動物に違っているのは、自然に逆らう力のあることだ。
自然に逆らうとは他でもない、せっかく与えられた天真を、我から摩滅させることだ。すなわち神らしく出来ていたものを、人らしくこしらえ直してしまうことだ。

他の動物は、馬にしても、犬にしても、鳥にしても、魚にしても、皆天から与えられたものを、すべて忠実に守っているのに、人間だけは造化の霊工に、下らぬ小細工を加えて得々とする。
それも蓋しある点までは、神から与えられた能力の、一種の作用であるに相違あるまい。しかしその小細工のために、往々天来の美質を傷つけ、あったら玉を瓦してしまうのは、神に対して相済まぬ次第だ。

それは子供の教育の上において、しばしば現れる失態であるが、その自己の修養の上にも、ややもすれば同じ轍を踏んでいる。

いったい人間はなまじ心が多様に働くだけ、我と天真をまげて、他を欺き自らを欺くという、悪癖を持っている。彼の人工の修身法によってなまじいに意思を矯正し、不条理に情欲を制すが如きは、全くこの悪癖の致すところだ。

本来、道というものは、決して一派の道学者が考究したり、一流の宗教家が工夫したりして、それに特殊の杭を打ったり、石を立てたりしておくべきものではない。
人と生まれてこの世に立つ以上、その足の下は皆道であるのだ。そしてその道を歩くためには、すでに足というものを与えられ、またこれを働かすためには、力というものを与えられている。すればその与えられた力で、目と足とを働かせさえすれば、立派に道は進まるべきものだ。

それを道に違い、道に外れ、ないし道に続くように、目を違わせ、足を狂わせ、はた力を鈍らせるに至ったのは、畢竟人間が天に逆らい、己を欺けばこそである。例えば目の前にレールのあるものを、わざとよけて枕木を渡ったり、小砂利を踏んだりするようなものだ。

かくて小賢しい人間が現れ、これ等の人を導こうとして、別に種々な道をつける。道無き茨の中を行くより、それは優っているに相違あるまい。しかし天成の大道に比しては、ややもすれば不自然な、歩きにくい道になってしまう。

味噌の味噌臭きは、真の味噌に非ずという。道の道臭いのも、やはり真の道ではあるまい。世間には武士道という道があるが、それは道の一部に過ぎない。人間は人間である。人間は皆武士ではない。武士は人間の一部である。武士道は人道の一部である。

蓋し人道は平坦砥の如く、我が体が正しく、足が直く、目が明らかな者であるなら、誰でも容易に歩けるはずだ。武士道に至っては、だいぶ人間の細工が加わっている。それだからまた歩く方にも、人工の履物も要れば、そのまた履き方も心得ねばならない。それだけ余計な手数がかかるというものだ。

ところで人間の子供は、最も神に近いものである。すなわち天真の爛漫たるものだ。彼らは他の動物の如く、意思を無遠慮に発表して、決して自己を欺こうとしない。いわゆる直情径行、すこぶる正直なものである。

しかるに大人はこれに対して、日常茶飯の間に、ようやく嘘を教えていく。そしてその嘘が募るに至って、さらに正直の徳を教え、嘘の罪悪を説く。矛盾もはなはだしいではないか。

それほど正直が良いと思うなら、まずもって子供に嘘を教えないようにするがよい。否、なまじ子供を導こうとするより、まずもってその子供に、正直の徳を学ぶが、真の道を行く捷径だろう。

79. 大なる正直

また、西洋のことわざに、正直は最後の勝利だ、というのがある。これは実に千古の金言だ。ただしこの正直は、ただ嘘をつかないという、消極的の意味ではない。
他を欺かぬと同時に、おのれを決して欺かず、すなわちおのれの欲するままに、意思の向かう通りを、言いもし、行いもするというのである。

また精神一到何事か成らざらん、という、かの支那派の格言も、せんじ詰めれば全く同意である。すなわちこうと思い込んだことは、どんな邪魔が起ころうとも、決して気を変えずに進んでいく。これやがて正直に、自己の意志を発表したものでないか。

実に正直は、よろずの徳の基である。君に忠なるも正直から来る。国を愛するのも正直から来る。其の他、職に勉め、業に励み、人に接し、事に当たるのに、皆正直をもってすれば、さながらその体の正しく、足の直に、目の明らかなる如く、道は楽々と進み得て、見事目的地に達するのである。

ただ返す返すも注意したいのは、この場合の正直の意味が、かの単に約束を違えぬとか、金を使い込まぬとかいう、小さな道徳にあるのではないことだ。

日本風に正直者といえば、かの花咲爺や、舌切り雀の爺さんを指すようだ。そしてあの桃太郎なぞについては、少しも正直を説いていない。しかし僕の見るところでは、この桃太郎の話ぐらい、正直を教えたものはないと思う。
正直!
すなわち大なる意味においての。

80. 正直と桃太郎

みたまえ! あの婆さんが桃を見て、すぐにこれを拾おうとした。これ自分の欲望を、正直に発露されたものだ。まだ主の有無もしれないものを、直ちに自分の有にするなぞとは、。はなはだ不正直だというような、尻の穴の狭い議論は、僕は頭から相手にせぬ。

しかもかの婆さんは、自分の力で拾いとった桃を、自分一人では食べはしない。爺さんの帰りを待って、二人でわけて食べようとした。ここには爺さんに対する愛情が、また正直に現れている。この時、もし一人で食って口を拭ってすましていたら、それこそ僕は道学先生を待たずして、この婆さんを叱りとばしてやる。

さて桃の中からは、立派な男の子が飛び出した。爺さん婆さんは喜んだ。そして自分の子の無いのを幸い、すぐに自分の子にしてしまった。これも自分の意志に対する、正直なる実行に過ぎない。

桃太郎は大きくなった。そして鬼ヶ島征伐を思い立った。思い立つと、すぐ許しを求めた。もしや止められやしないかとか、後で心配をかけるだろうかなぞと、少しもためらうところはない。思ったらすぐ言い出した。これらも正直者でなくては、決して出来ることではない。けだしこうした正直は、爺さん婆さんの感化でもある。

やがて桃太郎は出陣した。すると犬、猿、キジの三者が、代わる代わる来てきび団子を所望した。図々しいといえばいうものの、欲しいと思ったから所望した。そこが無邪気な正直さである。

そしてこれを貰った三者が、それから桃太郎の家来になって、鬼ヶ島を征伐するに及んで、その恩を返すために、骨を惜しまず正直に働いた。ここらは道学先生も喜ぶところだろう。

かくて桃太郎は首尾よく鬼ヶ島を切り従え、その宝物を取って凱旋したが、こうして初めの目的を貫徹し、最後の勝利を得るというのも、皆意志をありのままに発表した、その正直の賜物ではないか。

出典

近代デジタルライブラリー
桃太郎主義の教育 巌谷小波著 
大正4年2月25日発行 東亜堂書房

WEB掲載用に、旧漢字を新漢字に変更、段落分けの調整等の改変を行っています。
現代では不適切な表現もありますが、当時の文章を出来るだけ活かすために、そのまま掲載しています。ご了承をお願いいたします。


索引語:桃太郎主義の教育 連載

Posted by 主筆 at 2015/10/21/09:57

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