国民的おとぎ話は桃太郎で決まり/桃太郎主義の教育 最終回
大正4年10月22日
81. 発展的国民性
さてこうせんじ詰めてみると、日本におとぎ話も多いが、真に国民教育の本義に適った千古不滅の好おとぎ話は、実に桃太郎であらねばならぬ。
元来、日本の国民性は発展性のものであった。進取的のものであった。
それが儒教仏教を経とし、封建制度と武士道を緯とした、姑息な古布に包まれ、その本来の活力を束縛されたのが、ここ五十年前までの有様であった。
しかし今は、その上包みは、全く除かれた時代である。もし幾分でも残っているなら、速やかに破りさる時代である。そして真の国民性を遺憾なく発揮した、活力ある新日本を造らねばならぬ。
そしてその未来の国民を教育するには、この桃太郎なるおとぎ話が、最も適当な教材であることを、僕は幾度も繰り返してはばからず、そして家庭にも学校にも、あくまでこれを推薦したい。
かの老いてますます壮んなる爺さん婆さん、貧に処して少しもひがまず、欲はあってもしかもむさぼらず、働いて骨を惜しまぬ老人夫婦の下に、腕白ながら乱暴でなく、直情径行にして無邪気な一人っ子。大胆にして細心な、勇壮にしてしかも慈悲あり、公平にして寛大な名将の下に、真率にして誠忠な、智仁勇の各個性を発揮して、しかも団結力ある士卒。
一として模範的ならぬはない。
そして初めから終わりまで、一切積極的に進捗されている話柄は、聞く者の気を躍々とさせて、真に懦夫をも起たしめるまでに、我が国民性を発揮し得るところが、最も貴いところではあるまいか。
こういえばと言って、僕は何も桃太郎のように、なんでも外国を征伐しろと、冒険的思想を奨励したいのではない。ただあくまでもこの精神の、進取的に遠大なところを取るのだ。これも念のため断っておく。
82. 桃太郎の銅像
頃日我が国でも、子供に関する問題が、だいぶ注意されるようになった。そして全国の大都会には、子供のための遊園地の設置が、だいぶ要求されるようになった。これは僕も愉快でならない。
ついてはさらに建議がある。それは他でもない。
その遊園地の一部には、必ず桃太郎の銅像を建てることだ。銅像は金がかかるなら、石像でもよい。止むを得ずんば木像でも良い。とにかく桃太郎を形に顕したものを、子供の眼に触れるところに置きたい。
いったい銅像というものは、多くは古来の偉人をかたどるものだ。偉人もとより結構である。しかしそれはいくら偉くても、人間はやはり人間である以上、多少の欠点は免れまい。
現にある人の銅像が、ある時打ち倒された例もある。またある人の銅像を建てるのに、ひどく物議を醸した例もある。ある時代には立派に師表と仰がれても、またある場合にはその箔が剥げて、かえって指笑の的になることもあろう。
それからみると桃太郎は、本来架空の人物だけに、そうした懸念は少しもない。そして前にも言う通り、これに国民教育のシンボルとして、千古不滅の価値ありとすれば、これを銅像にしたといって、決して途中で量(めかた)が軽くなるなぞは、断じて無いことを保証する。
かつてドイツでは、懸賞をもっておとぎ話の噴水図案を募ったことがあった。それにはグリンムの集の中にあるものや、またジーグフリード、ライネケフックス、オイレンスビーゲルの如き、古来有名な口碑伝説から、種々な図案が生み出されていた。
それが実際建設されたのは、遂に僕は見損なったが、とにかく愉快な計画として、僕は嬉しく思ったのである。
おとぎ話を国民教育の教科書として、その価値をとくに認めている国柄としては、元より然るべきところであるが、日本ももはや今日では、ほとんど彼に譲らぬまでに、おとぎ話の効果を知ってきたのだ。
さらに今一歩を進めて、桃太郎の銅像を、子供の遊園地に建てるぐらいは、これを実行しても良くはあるまいか。
もっともかつて関西のあるところで、動物園の一隅に、桃太郎神社を建てようとして、その筋の許可を願いでたところが、神社法に背くからといって、却下されたということを聞いた。
なるほど真面目な解釈からいえば、おとぎ話の架空の人物を、祭神に祀り上げることは出来まい。しかし子供の遊園地における、国民性の代表物としてならば、決して差支えはあるまいじゃないか。
そしてこの銅像には、副像として爺さん婆さん、犬、猿、キジも添えておくが良い。さればここに遊ぶ子供らは、あるいは崇拝すべき英雄として、ないし無二の良友として、朝夕これに親しむ間に、自然とその薫化をうけて、桃太郎式人格の涵養をうけるのは、あるいはおとぎ話以上であろう。
また、年に一回ぐらいは桃太郎のための記念祭を催して、子供を楽しめるのも一策だ。これかの初午と称して、伊勢屋の路地の稲荷の前に、下卑た地口行灯を見ながら、出鱈目に太鼓を叩きならすのよりは、はるかに効果をもたらすのである。
83. 頑固な鬼を退治せよ
以上、桃太郎のおとぎ話を借りて、僕の平生の教育観を吐露して、いささか溜飲をおろした感がする。
それで今筆を置くに当たって、今一度繰り返したいのは、要するに我が日本の将来は、より大に、より強くあらねばならぬ。それにはその国民を造るべき、教育の方針を根本的に改革して、従来の姑息な注入主義を斥け、専ら放胆な開発主義を取りたい。
頭にばかり血をのぼせて、腹に力の無いような人間、精神のみ勝って、実力のこれに伴わない国民は、断じて造りたくないということである。
元よりいわゆる過渡の時代には、その潮流の変調にまかれて、多少の犠牲者は止むを得ないことだ。
然るにその犠牲の一人を恐れて、他の百人の進捗を阻むような、意気地のない了見で、どうしてこの新日本を、前途の大洋に導かれ得よう。
今は大切な時である。日本が果たして世界の日本になるか、単に東洋の日本に止まるか、また日本の日本に退くか、あるいはまた事によっては、ほとんど世界に認められないまでの、一小島になり下がってしまうかは、一に国民の覚悟いかんにある。
されば真に君を思い、国を憂えるの輩は、この大切な時期に当たって、また非常な意気込みを要する。しかもその高きに登るは、必ず低きよりするごとく、その広遠な理想に向かうべく、最も手近い指南者は、我が桃太郎の話である。
我が日本に人の親たる者は、桃太郎の爺さん婆さんの如くなれ!
人の子たるものは、桃太郎その人の如くなれ!
しかして人の臣たるものは、まさに犬、猿、キジの如くあれ!
もしそれこの説に反対する、頑固蒙昧の徒があるならば、僕はこれを鬼ヶ島の鬼どもとして、桃太郎と共に退治しなければならぬ。そしてその鬼どもを退治した時、初めて宝物が手に入る。-理想の新日本が興るのである。
感ずるところあって、桃太郎論を書いてみた。
出典
近代デジタルライブラリー
桃太郎主義の教育 巌谷小波著
大正4年2月25日発行 東亜堂書房
WEB掲載用に、旧漢字を新漢字に変更、段落分けの調整等の改変を行っています。
現代では不適切な表現もありますが、当時の文章を出来るだけ活かすために、そのまま掲載しています。ご了承をお願いいたします。


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