百年前新聞

2018-05-24

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乃木家再興問題続報ほか

大正4年9月15日

大正4年(1915年)9月14日の出来事一覧

【医療】血清の値下げ
【社会】乃木家再興問題
【アメリカ】駐米ドイツ大使が国務長官と面談
【第一次世界大戦】ドイツ・オーストリアによる、ルーマニアへの要求
【訃報】 田辺 太一 (幕末・明治初期の外交家)

<国内>

血清の値下げ

伝染病研究所による官製の血清が値下げされることになり、20日から値下げが施行されます。

北里研究所の志賀潔博士談


志賀潔氏(1924年)

血清が安くなったことは、大きく言えば国家のため、小さく言えば患者のために、非常に結構なことであるが、なぜ血清全体の値下げをしないのか。

今回値下げの血清は、ジフテリア、赤痢、ツベルクリン等で、コレラ、ペスト、破傷風の血清は値下げをしていない。要するに売れの多い血清を行い、売れの悪い血清は値下げをしないという、商売気がありすぎると言える。
値下げの余裕があるなら、法律上強制している痘苗を無代にしてはどうか。とにかく値下げして、いっそう効力がある血清を製造してもらいたい。

当、北里研究所では、官製血清を眼中に置かない上、当方には当方の主義があるので、値下げは行わない。経済の点においても、大蔵省の後ろ盾のある官営と、その後ろ盾を持たない民営とに違いが無ければならない。

乃木家再興問題

毛利元智氏が乃木家を再興する件に関して、世間ではさまざまな反応が現れています。

長谷川いな子女史(故乃木将軍の実妹)談

新聞では、親族会議の結果後継者を選定されたように報じていますが、われわれ親戚は独りとしてその相談にあずかったものはありません。
たぶん反対をおそれて、秘密裡にある一部分の人がこのことを定め、反対の余地がないようにしたのでしょう。
後継者の選定をよくせず、漫然と乃木家の後継者とするのは、乃木家のため、とくに故将軍の遺志を蹂躙する行為で、遺憾の限りです。

伊豆少将(日露戦争で故乃木将軍の部下)談

まったく今度の乃木家のことは寝耳に水で、分かりかねることがだいぶある。
しかしこのことは我々の上に戴いているお上から出たことで、事情のいかんを問わず、我々は服従の義務を有しているのである。
この上は、新伯爵が大将の衣鉢を継ぐに充分な修養を希望するしかないが、元智氏が立派な人であっても、100年200年の後、誤って不肖の人物が出たら、世間はなんというだろうか。

今度のことで誰もが感じることは、玉木氏なり大舘氏なり、れっきとした親族があるのに、なぜ相談がなかったのであろうか。乃木家一家の問題だけではなく、国民教育上、ある障害を来すことにはならないか。公人としては批評の自由を持たないが、私人としてはこのようなことを考えている。

鎌田栄吉氏(慶應義塾塾長)談

今回、毛利元智氏が伯爵を授けられ、乃木家を継ぐということは非常に結構なことで、誠忠無比の乃木将軍の偉大なる人格を、後世の人に示すモニュメントと解しておる。
新伯爵が適任者なるや否やは知らぬが、故乃木将軍が尊敬し愛慕していた主家の人々をたてたことは、暖かい情誼が偲ばれる。

乃木家は将軍の遺志通りに一旦断絶され、また新たに陛下が故将軍の功績を御追賞遊ばされて乃木家の再興を賜ったのだから、将軍の遺志は貫徹していると思う。

今度の乃木家復興問題は、一に感情の問題で、その間にはいろいろな複雑な問題があるに相違ない。また一面から言うと、乃木家の再興も長州でなかったら不可能だったかもしれない。とにかく毛利家に新たに伯爵家が増えたわけだ。

しかしこの問題は、理屈で解釈しても価値がないもので、ただただ感情で解釈して、乃木将軍の誠忠を後世に伝えるモニュメントとして、非常に結構なことである。

乃木新伯爵の動向

新伯爵となる毛利元智氏は、新調のフロックコートで、東宮御所、山縣公、松方候、大山公、波多野宮内大臣、乃木家、毛利家の親戚を、挨拶に回りました。

<海外>

駐米ドイツ大使がアメリカ国務長官と面談

駐米ドイツ大使ベルンストルフ伯が、ランシング国務長官と会見しました。
ランシング氏より、先日の「客船を抵抗しない限り無警告で攻撃しない」という声明に対して、ドイツ側の誠意を立証する必要がある、という要求がされたようです。
ベルンストルフ伯は、ベルリンと交渉のため回答の延期を求めたと伝わっています。

関連記事:9月1日

ドイツ・オーストリアによる、ルーマニアへの要求

タイムス紙によると、ドイツ・オーストリアは、ルーマニアに対し領土通過の許容と、揮発油その他の軍需品の供給を求めました。
連合国側に傾きつつあるルーマニアへの同盟国側の脅迫か、もしくはルーマニアが連合国側から有利な条件を引き出すための意図的な情報提供か、情報に対する見解が分かれています。

<このとき>

駆逐艦浦風がイギリスのヤーロー社での建造が終わり、日本に引き渡されました。


浦風 1933年

訃報: 田辺 太一 (幕末・明治初期の外交家)


田辺太一 1863年フランスにて

田辺太一氏は13日三宅雪嶺夫妻と食事中に卒倒し、14日に亡くなりました。享年84歳。

氏は天保2年(1831年)に幕臣の家に生まれ、1857年に長崎海軍伝習所に第三期生として学んでいます。
その後、幕府の外国方となり、横浜の開港事務や、小笠原諸島の調査に従事されました。
1863年には、幕府の横浜鎖港交渉のため、フランスに派遣されています。(交渉は失敗)

幕府瓦解後は、徳川慶喜に従って沼津兵学校の教師となっていましたが、新政府から召され外務省に出仕し、外交経験が不足していた新政府を補佐しました。
岩倉遣欧使節、台湾出兵後の大久保利通の清国への交渉にも随行されています。

晩年は詩文や書といった趣味を楽しみながら、明治維新の語り部として、維新資料編纂委員にもなられています。
太一氏の娘の花圃さんは、ジャーナリスト三宅雪嶺の妻となっています。

幕末、明治維新期の外交に奔走された方です。


索引語:アメリカ オーストリア ドイツ バルカン諸国 健康・医療 海軍 社会 第一次世界大戦 訃報

Posted by 主筆 at 2015/09/14/17:16

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