百年前新聞

2018-04-22

百年前新聞とは?

ダーダネルス海峡戦終了、熊谷一弥の東洋テニス大会優勝報道ほか

大正5年1月9日

ヘレス岬からの撤退 ウィキペディアより


大正5年(1916年)1月9日の出来事

【スポーツ】熊谷一弥氏が東洋テニス大会で優勝の報道
【政治】ロシア大公 下関着
【経済】ジャワ島へ出資者募集
【社会】大倉組の年末賞与は2倍
【社会】講道館の鏡開き
【社会】年始の白粉師の様子
【第一次世界大戦】ダーダネルス海峡戦終了
【中国】雲南独立の続報

国内

熊谷一弥氏が東洋テニス大会で優勝


熊谷一弥

マニラからの電報によると、1月1日から開始されていた東洋庭球大会において、慶應義塾庭球部熊谷一弥氏が優勝を果たしました。

熊谷氏はグリフィン選手と決勝戦を行い、10対8、6対3、10対8の大接戦の末の優勝です。

その最後に破ったクラレンス・グリフィン選手は、アメリカ東海岸の庭球の覇者で、昨年のアメリカ全土の選手権で4位になった猛者です。

熊谷選手の優勝は、単に東洋というだけでなく、世界的な意味があります。

ロシア大公が下関着

大正天皇の即位を祝う、ロシア皇帝からの使節ゲオルギー・ミハイロヴィチ大公が、御召艦鹿島に乗り下関に到着しました。

陸上では市民が日露両国旗を掲げ、花火をうちあげられています。

大公殿下は非常に満足された様子です。

イギリス資本家のジャワ島出資依頼

ジャワ島バタヴィヤ在住のイギリス人資本家が、土地の永代租借権を獲得しましたが、ヨーロッパが戦争中のため本国の資本家の出資が難しく、日本の資本家に共同経営を申し入れてきています。

希望者は農商務省に申し出て下さい。

大倉組の年末賞与 例年の2倍


大倉喜八郎氏

大倉組の昨年末の年末賞与は、大倉喜八郎氏が男爵に就任されたお祝いで、例年の2倍だったようです。
大倉組の社員の間では、来年はこれまで通りに戻るのだろうか、という噂で持ちきりとなっています。

関連記事:12月1日 大倉喜八郎氏らの授爵

講道館の鏡開き

柔道の総本山の講道館では、朝9時に400名が道場に集まり、羽織袴姿の嘉納治五郎館長による例年の昇段者の発表が行なわれました。
昇段者の中には、アラン・スミスというイギリス人もいます。

昇段者の発表が済むと、鏡開きとなり、お汁粉と沢庵が振る舞われています。山盛りの餅がみるみるうちになくなり、さすが講道館です。

白粉師(おしろいし)の年始

去年の暮れに嫁入なさった花嫁さんの年始まわりと、学校通いのお嬢さん方が晴着に着替えて先生や親類めぐりをなさることが流行り出したため、今年の正月三が日の忙しさは目が回るぐらいでございました。

世間の景気が良いためか、どこさまにも立派な晴れ着が出来ていて、昨年のように染め返しなどというのはほとんどありませんでした。

眉の作り方と帯の結び方で、年齢の二つや三つは若くも老けても見せることが出来ます。

白粉もただ綺麗につけるだけなら何の難しさもありませんが、長く持たせよう、そして襦袢や着物の衿を汚すまいと思えば、一方ならぬ苦心です。行ってすぐお帰りになる舞や琴のおさらいなら苦もないことですが、年始の白粉には毎年毎年のことで苦労いたします。

海外

イギリス軍がガリポリ半島から撤退


ガリポリ半島ヘレス岬

イギリスのモンロー将軍が、ガリポリ半島のヘレス岬から無事に撤退したことを発表しました。
負傷者はわずかに1名、大砲、機関銃などはすべて移送されています。

(*夜陰に紛れて武器を移送、オスマン軍はヘレス岬で戦線を維持すると勘違いしていた)

中国雲南独立問題:日本の革命党員の談

昨年11月初旬、蔡鍔(さいがく)が日本に来て、孫文に兵をあげる時が来たと説いたが、孫文側では話がまとまらず、ある一派は時期尚早を唱えたので、蔡鍔は東京を去って譚人鳳(たんじんほう)を説いた。それで譚が挙兵の決心をしたのである。

関連記事: 12月19日 在京中国革命党の集会

このとき

出来事

・シベリウスが交響詩「吟遊詩人」の完成版を、自身の指揮でヘルシンキ・フィルハーモニーで初演 (Youtube
・オーストリアが、コルト湾でモンテネグロ軍を撃退

誕生日

ラスプーチン (47) ロシア祈祷僧
石黒 忠篤 (32) 農商務省官僚

編集後記


撤退の様子 (Diary of the Great Warより)

1915年の2月から、1年間近く続いたダーダネルス海峡戦が終了しました。この戦争での犠牲者は、下記の通りです。(数字はウィキペディアより)

国名戦死者戦傷者
オスマン帝国軍86692人164617人
イギリス軍21255人52230人
フランス軍約10000人約17000人
オーストラリア軍8709人19441人
ニュージーランド軍2701人4852人
インド軍1358人3421人 
カナダ軍49人93人

この他にも、病で倒れた兵士も多数います。

この戦いは、ロシアが黒海から地中海に出る航路が封鎖されているため、ロシアの側面支援と、オスマン・トルコを戦争から脱落させる目的で、計画されました。

当時のオスマン・トルコは、「瀕死の病人」扱いされており、日本の新聞でも英仏の勝利は間違いない、と当初は書かれています。

実際にはトルコが踏ん張り、イギリスはただ損害を出しただけで撤退することになっています。

この戦争で活躍したムスタファ・ケマル中佐(途中で大佐に昇進)は、国民的英雄となり、将来のトルコ共和国初代大統領となります。

イギリスでは、作戦を進めたウィンストン・チャーチル海軍大臣が罷免され、チャーチルはしばらく雌伏の日々を過ごすことになります。(じっとしていられない性分なので、いろいろ動いてはいますが)

イギリス連邦として、オーストラリア、ニュージーランドの兵士が本格的に戦う初の戦いともなりました。大規模上陸作戦の先例として、戦史的にも研究対象になっています。

この戦いのエピソードとしては、科学者のヘンリー・モーズリーが死去(8月10日)、スナイパーのビリー・シンに感謝状(10月23日)があります。ビリー・シンに関しては、ウィキペディアの記事がなかなか面白いです。
(ちょっとウィキペディアらしくない記事ですが)

毎日、昔の新聞を読んでいると、連合国側の一員の気持ちになってくるので、同盟国のイギリス軍の敗退は残念、という気持ちになってくるのですが、いざ2015年の視点に戻ると、トルコが勝って良かったな、と思い直します。

ここでイギリスが勝っていたら、イスラム圏の混乱は現在より激しかったでしょう・・・と考えても、歴史に「IF」は無いので、考えるだけですケド。


熊谷一弥氏の東洋テニス大会の記事は、1月5日からだいぶ遅れて報道になっています。マニラとの通信はどこか経由なので、遅れたんでしょう。
ともあれ、「世界的な意味」ということで、日本国内でも注目されています。

その他の記事は、ちょっと微笑ましい記事を集めてみました。

大倉喜八郎氏も、男爵になって相当嬉しかったんでしょうね〜
大倉喜八郎氏は、帝国ホテル、帝国劇場、大成建設等の創業者で、明治維新を機に財を為した、当時の財界の大物です。

では、本日は以上です。


索引語:イギリス スポーツ ロシア 中国 政治 文化 産業 社会 第一次世界大戦 経済

Posted by 主筆 at 2016/01/09/00:25

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