百年前新聞

2018-01-22

百年前新聞とは?

大隈重信首相が爆弾で襲撃される、ほか

大正5年1月13日

大阪朝日新聞


【事件】大隈重信首相が爆弾を投げつけられる、首相は無事
【外交】来日中のロシア大公の動静
【政治】小松原英太郎が枢密顧問官就任
【農業】農商務省で技術者協議会
【中国】帝政承認へ日本に特使派遣計画
【第一次世界大戦】フランスがコルフ島占領、ギリシャに弁明
【訃報】ヴィクトリアーノ・ウェルタ (元メキシコ大統領)
【訃報】外山 脩造 (関西実業家)

国内

大隈首相が襲撃される


大隈重信

12日に宮中で行なわれたロシア大公歓迎の夜宴に参列し、早稲田の自宅へ帰宅途中の大隈重信首相が、牛込区山吹町で爆弾を投げつけられました。

爆弾は自動車の前方に当たり、爆発はしていません。凶漢はさらにもう一つの爆弾を投げつけましたが、車には当たらず、自動車の後方に落ちました。

警視庁は非常召集をかけ、目下厳重に犯人を捜索中です。

久松家令の談

昨夜10時55分、首相および楳井警部、自分と運転手の4人で帰っていたところ、自動車に石が当たったように感じ、同時に光ったものを見つけた。

それで10〜20m行ったところで自動車を止め、付近を捜索してみると、10センチぐらいのブリキ缶が2個落ちていた。爆発するに至らなかったのは、幸いだった。

楳井警部の談

この辺は東京で最も厳重に取り締まっているところで、昨夜などは20名の巡査が警戒していた。

爆弾は一見して、素人が製造したものであることは明らかである。

この間(大隈)伯は久松家令と同乗していたが、この騒ぎの中に少しも驚く様子もなく、泰然としておられた。

爆弾の調査

爆弾は警視庁で押収し、速やかに東京砲兵工廠に回送して、監査が行なわれました。

爆弾は、小型の茶缶に砂利と鉛片、少量の鉱山用の火薬を混合充填したもので、これに導火線を付着しています。

爆弾製作に経験がない者が作ったことは明らかで、しかも犯人は導火線に点火した形跡すらありません。

が、もし導火線に点火していれば、殺傷能力は充分にあるため、悪戯ではないと思われます。

警視庁では社会主義者の関与も疑いましたが、最近の社会主義者の活動から考えると、社会主義者の犯行ではなさそうです。

御見舞い客の訪問

早朝から号外が出され、御見舞客が続々と早稲田の大隈邸を訪れました。

一番乗りは青山胤通博士(医者)、武富時敏大蔵大臣、中野武営(実業家)氏らで、大隈首相は元気に応対されています。

10時頃に大隈首相は官邸に行きましたが、その後も山県有朋公爵、長谷川好道元帥、馬越恭平(実業家)、等々が続々とお見舞いに駆けつけました。

早稲田関係者の談

まさか私怨で大隈伯を襲撃しようという者もいないだろうから、今回のことはまったく政治上の陰謀であろう。

犯人が爆弾2個を抱えて、一個が爆発しないときに備えたことや、時刻を測って爆弾を投げていることから、一般人ではないのでは。

反対党ということもないだろうから、(中国の)袁世凱の関係かもしれない。大隈内閣が崩壊すれば、帝政が承認されると考える者もあるだろう。

ただ、今のところ全く分からない。

某政友会議員の談

大隈首相が攻撃される原因としては、留任や大浦問題があるが、それであればこのような手段はとらないだろう。

乃木家再興問題は、非常に激昂している人も多いが、これらの人は爆弾を手に入れることはないだろう。

外交問題では、このような手段をとることもありえる。が、帝政延期に関しても、単独不講和加入にしても、首相の生命を奪ってまで、その進行を阻止するものでもない。

ただ、大隈首相は無鉄砲でこの先何をするやら不安を感じる、というのは世間一般でも考えられているので、これらの憂慮から暴挙に及んだものかもしれない。

某国民党議員の談

最近、与野党の争いが激烈だが、政党も立憲的に行動するようになっているので、このようなことを反対党として行なっても、国民の支持が受けられるものでもない。

中国問題に熱中する若者もあるので、これらの輩が政府の外交に憤慨して行ったのではないか。

頭山満(玄洋社)談


頭山満

読売新聞の記者が取材に行くと、しばし沈黙をされました。

明治17年(ママ:大隈重信が外務大臣で、玄洋社社員により襲撃されたことを指すと思われる)の話を振ると、

「あの時代には反対の声が天下に満ちとった。ああならなきゃならぬように、世の機運が向いていたのである。官吏の中にも真面目に反対しとる者もかなりあって、全国一帯の空気が、どうしてもああならなきゃならぬ結果として、ああなったのだ。今度のこととは、すべての背景が違う。

どんな者が今度のことを惹起したのか、そりゃ分からぬ。分からぬが、しかし壮漢は常に絶えんな、真面目に国を思う壮漢は常にあるものだ。」

とだけ語り、あとは沈黙されています。

大隈首相夫人の談

昨夜主人が帰宅したのは11時過ぎで、平素のように極めて平静な態度で、あたかも何事も無いように私の部屋に入ってきました。

そして私に「お土産をあげよう」と、宴席から持ち帰った銀製の鳥かごを私に差し出しました。

「これにはお菓子がついているはず」と聞いてみると、「うん、自動車へ忘れてきた」と言って侍女に取りに行かせると、「自動車がどこに行ったか見えません」ということでした。

どうしたのかと思っているうちに、他の者が来て「自動車は爆弾の調査に参りました」と知らせたので、主人は初めて思い出したように「ああそうだった」と爆弾のことを語って、やはり平常のように寝室に入りました。

大隈首相の談


大阪朝日新聞

この老人はなかなか悪業が尽きぬと見えて、いろいろな目にあうが、しかしまだ閻魔大王の方で御用がないと見えて、昨夜も何のことはなかった。

元来、暗殺とか毒殺とかいう行為は臆病者のすることで、もちろん野蛮な行為である。現在の文明国では争いは正々堂々でなければならぬ。もし今日の法治国において、反対者を倒すのに暗殺や毒殺の手段によるようでは、その国民性を傷つけるものである。

いわんや政治的意味での行為であれば、さらに国民性を汚辱するものである。法治国にあっては、法律の制裁以外の私刑は許さないのである。

いわんや暗夜に乗じてひそかに狙撃することは、古来我が武士道にても臆病の行為として大いに排斥した。

昨夜の事件は、はたして我輩を暗殺する目的だったか、また単なるいたずらであったか、その辺はまだ不明であるが、国内の人の行為とすれば臆病者の仕業としか認められず、国外の人の行為とすれば、国家の目的は一国の総理を倒せば変更されると考える、愚者であることを免れないのである。

明治17年にあの災厄にあって片足を失ったが、あの時すでに死んでいたはずのところ、天祐のため今日まで32年間国家のために尽瘁することが出来たわけである。

我輩はその後、いつでもこの身命を賭して仕事をしているから、今回のようなことがあっても何らの恐怖も無い。ただますます国家のためにこの全精神と全肉体とを捧げる決心が固くなるのである。

今や我が国は国賓(*ロシア大公)が在京中で、誠意御旅情を慰め奉る時期で、我輩の遭難のごときは、何ということもない。

ロシア大公の動静


ミハイロヴィチ大公

来日中のゲオルギー・ミハイロヴィチ大公は、午前10時30分より宿泊所の霞ヶ関離宮で、大正天皇の御答訪を受けられました。
約30分間、天皇陛下は滞在されています。

その後、伏見宮邸で午餐を共にされ、青山御所の皇后陛下、各宮家、英米仏伊の大使館を回られました。

午後5時に、目白椿山荘に山県有朋公爵を訪問し、ロシアへの武器供給への協力を依頼したと思われます、

午後6時には早稲田の大隈首相邸を訪問されました。

その後、閑院宮邸での晩餐会に出席しています。
出席者は、岡陸軍大臣、加藤海軍大臣、石井外務大臣、寺内正毅朝鮮総督、後藤新平日露協会副会長などです。

小松原英太郎氏が枢密顧問官に就任


小松原英太郎

高島鞆之助中将の死去に伴い、小松原英太郎氏が枢密顧問官に親任されました。

小松原氏は岡山県士族の生まれ、藩校で学び、明治7年慶應義塾に進学、卒業後は曙新聞などで評論活動を行ない、明治9年には記事が新聞条例違反となり、一時獄中生活もされています。

出獄後は再び新聞に関わりますが、明治13年からは外務省に入り、内務大臣秘書官、埼玉県知事、内務省警保局長、静岡、長崎県知事、司法次官、内務次官、等々を歴任され、貴族院議員に勅選されていました。

明治31年に原敬氏の後任として大阪毎日新聞社の社長もされ、第二次桂太郎内閣で文部大臣もされています。

地方農事試験場農芸化学主任技術者協議会の開催

農商務省で、「地方農事試験場農芸化学主任技術者協議会」が開かれています。

河野広中農商務大臣は、

「我が国は土地狭小につき、その利用をますます集約させると同時に、肥料の使用により生産力の増進を図る必要がある。

今の肥料の大勢を観察すると、外国からの輸入が多い。土壌の利用及び肥料の使用に関して、諸君らの農家指導奨励の方針を正しく建てることを望む。」

と訓話をしています。

海外

中国情勢


曹汝霖

中国の外交部次長曹汝霖(そうじょりん)は、日置公使に対し「袁世凱の皇帝即位は、日本に派遣する特使周自斉が帰国するまでは発表しない」と表明しました。

皇帝即位は、日本の対応を確認してからのことになります。

真偽は不明ですが、現地の報道によると、特使周自斎は、

・日本人の財政、軍事、行政顧問を雇うこと
・日本人の学校、病院、寺院の建設を許可する
・鉄道敷設権を与える
・鉄道敷設の借款を日本に申し込む
・日中共同警察

などを交換条件として、日本に帝政を承認してもらうよう交渉するとのことです。

日本でも、実業界や陸軍の実力者に、中国の帝政を承認するべき、という意見も出てきています。
外務省は一貫して、革命(雲南省独立)の帰趨が分かるまで、帝政を承認しないという立場です。

フランスがコルフ島を占領


フランス軍がギリシャ領のコルフ島を占領、14隻の艦隊によって占領しました。

「連合国は、アルバニアにあるセルビア軍を飢餓と滅亡より救いだすため、なるべくすみやかに他に移送するのが人道上の義務と考える。コルフ島は、ただこの輸送と食料補充に便宜を得るために使用するに過ぎない。これは永久的な占領というものではなく、ギリシャが本件に関し、反対を唱えるとは思わない。」

と声明を発表しています。

(セルビアはドイツ・オーストリア・ブルガリアによって国を占領され、軍隊は国外に避難していました)

このとき

出来事

森鴎外が、「渋江抽斎」を『大阪毎日』『東京日日』で連載開始

訃報: ヴィクトリアーノ・ウェルタ (メキシコ元大統領)


1850年に、白人とアメリカインディアンの混血として生まれ、17歳で陸軍に入隊。

1876年から1911年まで、長期間大統領を務めたポルフィリオ・ディアスの下で出世をし、ディアスが1911年にメキシコ革命で失脚後は、マデロ新政権で軍の最高司令官になりました。

マデロ大統領に対する反乱が起こると、反乱軍側に寝返り、1913年にクーデターで自身が大統領に就任。議会を停止、数百人を処刑し、軍事独裁政治を展開しました。

ただこの政権はアメリカから承認されず、国内が内戦状態となり、1914年7月には敗勢が濃厚となり国外に亡命します。

イギリス、スペインを経て、再度メキシコに戻ろうとしたところ、1915年6月にアメリカで逮捕されました。

そのまま獄中で肝硬変で死去、享年65歳。

訃報: 外山 脩造 (関西の実業家)


1842年(天保13年)越後長岡藩に生まれ、戊辰戦争では官軍と戦い、家老の河井継之助の遺言により、商人の道を目指すことになりました。

28歳で慶応義塾に入学し、卒業後は大蔵省、横浜正金銀行を経て、1882年(40歳)で日本銀行の初代大阪支店長に就任されます。

日銀を辞職後は、欧米視察を行ない、帰国後は関西財界の指導者として、銀行を始めとした様々な会社の経営に関わりました。

1899年に阪神電鉄が設立され、その初代社長に就任されています。

編集後記

大隈首相が、凶漢によって襲撃されました。

導火線に火を付けていないという、いかにも素人の犯行という感じです。

大隈重信は、さすがに維新の激動の時代をくぐり抜けただけあって、全く動じていません。この気概はさすがです。

大隈重信は、明治17年(と新聞には書いてありますが、22年?)外務大臣当時に、不平等条約の改正案が外国人判事を導入するということで、玄洋社社員の国家主義者によって襲撃され、片足を失っています。
また、伊藤博文が暗殺された際に、「華々しい死に方」と羨んでいたという逸話もあるので、暗殺に対しては心構えがあったんでしょうね。


新聞社が、その玄洋社のボス頭山満のところに取材に行っているのも、当時の世相が分かってなかなか面白いです。
現代の視点からすると、頭山満というと右翼の巨頭という感じですが、結構普通に新聞にも登場しています。(インド革命党員の国外退去の記事など)


中国(袁世凱)も、日本に帝政を承認してもらうよう、必死です。
せっかく21か条要求で日本が譲歩した項目も、自分から権益を与えようとしている(真偽不明となっていますが)という、この頃の日中関係は現代とまったく違いますね。

メキシコのウェルタ将軍も、簡単にまとめてしまうと権力掌握のために極悪非道なことをやっているような気もしますが、ともかくもこの頃のメキシコは混乱の時期です。(参考:安達メキシコ公使の帰国の記事

外山脩造さんも、越後長岡藩出身で、河井継之助の命によって実業家の道を志したというのも興味深いです。(河井継之助は、司馬遼太郎「峠」の主人公)
薩長以外の藩、特に朝敵になった藩の出身者は、政治ではなく実業の面で成功されている方が多いです。

阪神電鉄の祖ということで、関西方面の方はこの方のお世話になっているということですね。


では、本日は以上です。


索引語:政治 大隈重信 事件 ロシア 農業 フランス ラテンアメリカ諸国 中国

Posted by 主筆 at 2016/01/13/00:02

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